21世紀の漆を考える

21世紀の漆を考える

天然素材うるし

コンセプト
天然うるしとは?
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・うるし液の種類
本物とにせもの
うるし製品の価格
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漆器のつくりかた
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・素地のつくりかた
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・加飾のうるし技法
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うるしは4K ?
うるしの科学
・科学(入門篇)
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漆は英語でjapan
漆器の主要な産地
うるしの雑学
根来椀の復元
・根来塗りとは
・実際の制作過程
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根来塗(ねごろぬり)について


国宝に指定されている根来寺 大塔
重要文化財(国宝) 根来寺 大塔


根来塗りの由来

和歌山県那賀郡岩出町根来にある真義真言宗の総本山である一乗山大伝法院根来寺(俗に根来寺)で什器として使われていた漆器を江戸時代前期には「根来」「根来もの」として珍重されたと言われます。
現在では中塗りに黒漆を、その上に朱漆を塗り乾燥後、表面を研ぎ出し所々に黒の研ぎ出し模様をつけた漆器を総称しています。
発祥の頃は、作為的に研ぎ出しをしたものではなく、日常雑器として長い期間使用している間に表面の朱漆が擦り減り中塗りの黒が表面に模様として出来たものであると云われています。 本来、僧の日常雑器であるため大量生産されていたもので、朱漆の塗立て(ハケ塗り仕上げで磨いていない)仕上げであり、現在の様に研ぎ出したり磨き上げはされておらず全面が朱色の表面であったと思われます

現在売られている根来塗りには、地名をつけた「京根来」「奈良根来」「吉野根来」「薩摩根来」「堺根来」、色により「黒根来」(あけぼの塗とも云われます。朱中塗と黒上塗で逆転しています)「青根来」、塗り方により「刷毛目根来」「布目根来」などがあります。



根来寺
(大門)

根来寺

大伝法院と密厳院を設立した興教大師が、保延6年(1140年)に根来の地に移り円明寺と神宮寺を設立した。正応元年(1228年)に高野山から大伝法院と密厳院を移し、真義真言宗総本山として隆盛を極めた。室町時代末期には僧5900名がいたと云われる。領地72万石、寺院数2700以上といわれる。 この僧たちが日常的に使うための什器として漆器が用いられ、大規模な工房が存在したようである。しかし、天正13年(1585年)秀吉の紀州攻めで全山焼失し漆器及び工房も無くなり工人達も散り散りとなったと伝えられます。

現在の根来寺は江戸時代に紀州徳川家により再興されました。この再興には江戸の護国寺、隆光僧正の力が大きく働いたと云われます。

根来寺
(大師堂)


なぜ滅び、漆の技術は?
なぜ秀吉は紀州攻めを行ったのか?
当時の根来寺は隆盛を極めており油の売買で蓄えた富を使い、行人(僧兵)を抱え全山を城郭都市としていました。畿内で始めて鉄砲を導入していたとも伝えられます
(種子島から直接、鉄砲の技術が伝来したようです)
現在では考えられないほどの力を保持していたことがうかがわれます

室町時代の寺は、薬の製造を始め多くのものを生産していました。特に醸造の技術は高く味噌や酒の生産は盛んであったようです。現在の清酒の開発や火入れによる日保ちの良い酒を作り出したと言われます
当時、僧侶の飲酒は禁じられてはいなかった様ですが、あまりにも飲酒による弊害が出るようになり禁酒に至ったと思われます

この紀州攻めにより漆工房の工人は逃げ延び、全国各地に散らばり現在の有数な産地(会津、輪島、薩摩等)へも逃れた様であります。
高級漆器で知られる輪島(石川県)には根来から逃れた工人達が漆器造りを始めたとの伝承もあるようです。

今回復元するこの椀は、近世以降の漆器の原点に当たるものかもしれません。

根来寺の発掘調査  中世の三大遺跡のひとつといわれる根来寺坊院遺跡の発掘調査は1976年より始まり現在も行われています。
この当時の漆器は焼き払われたことも在り、伝世品はほとんど無く、発掘品も完品は無く焼け焦げた破片も多くあります。工房跡が発見されるのを期待したいものです。



なぜ根来塗は、朱色なのか?
朱色は神社の鳥居などにも使われており、宗教的な意味合いがあったと思われます。
正確な史実は今のところはっきりと掴めておりません(勉強不足かも知れませんがご存知の方はお知らせください)
そして、材料が入手し易かったことが考えられます。
現在は採掘しておりませんが、和歌山県にあたる地域は水銀の鉱脈の中心に近かったことが知られています。
当時、水銀は戦略物質であったようです


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